やすらぎの杜整体院のホームページをご覧頂き誠にありがとうございます。
このページでは院長のプロフィールや生い立ちについて書いてあります。

どんな施術家かわからないと不安ですよね。
私の考え方やこれまで経験についてもある程度わかった方が安心できると思いますのでなるべく詳しく書いてあります。

予約の際の判断の一助になれば幸いです。

院長のプロフィール

やすらぎの杜整体院 院長 : 上川名 修(かみかわな おさむ)

  • 1972年仙台市生まれ
  • 2歳~小六 父親の仕事の関係で埼玉県川越市で過ごす
  • 小六~高三 父親の転勤で新潟県新潟市で過ごす
  • 大学時代 長野県の信州大学に入学 スキーやバイクを満喫する
  • 大学卒業後は愛知県名古屋市の繊維メーカーに就職
  • 24歳~ 繊維メーカーを退職し実家の仙台市に戻り自然食品店で働く
  • 28歳~ カイロプラクティックのスクールに入学
  • 32歳~ やすらぎの杜整体院開院

詳しい経歴

どんな人間が施術をするのかある程度わかった方が安心できると思いますので、まずは自分のこれまでの経歴を紹介させて頂きます。

幼少期~小学生

生まれは仙台市ですが2歳の時に父親の仕事の都合で埼玉県川越市に引っ越しました。
幼少期から小学校六年生の秋まで川越市で過ごしました。
小さな頃から冷静な目で周囲の人間や物事を見ていました。
子供ながらに周りのことをいろいろ分析していたように思います。

読書も好きでよく本を読みました。
勉強も好きで成績は良いほうでした。
記憶力が良く純粋にいろいろなことを覚えるのが楽しかったです。

勉強だけでなく、毎日外で駆け回っていて体育も好きでした。
小学生の頃は陸上の学校代表に選ばれて大会に出たりもしました。
瞬発力が抜群に良かったので短距離走はいつも最初の30mくらいは一位でした(笑)

手先もまあまあ器用で絵を描いたり工作を作ることも大好きでした。
図工の時間に描いた絵が市や県のコンクールにもよく入選していました。
もらった賞状を親が額に入れて飾ってくれて、それが部屋の壁を一周しました。

習い事はスイミングスクール、絵画教室などに行ってました。
放課後は毎日外で暗くなるまで野球やサッカーなどをしていました。
友達も多くとても楽しく活発な小学生時代でした。

六年生の秋に父親の転勤で新潟市に引っ越しました。

中学生時代

中学生になってからも成績はトップクラスでしたが、一つ大きな悩みが出来ました。
人前で話すのが元々苦手でしたが思春期特有の自意識過剰が加わり、声が震えたり赤面するという症状が出るようになりました。

中学生くらいですと成績が良いと学級委員とか生徒会の役員に推薦されるのです。
それが嫌でわざとテストの答案を間違えて成績を下げたり、授業中に先生が見ている前でおしゃべりをしたりしてあえて評価を下げる努力をしていました。

しかしその悩みも誰にも話さず親や友人に打ち明けたこともありませんでした。普通に友人も多かったですがあまり心の奥のことを話すことはありませんでした。
そんなに他人を信用していなかったのかもしれません。

部活動は卓球部でした。
一応レギュラーメンバーとして大会などには出ていましたが特別強い学校でもなくまあまあ楽しみながらやってました。
中学生の頃はとにかく人前で話すことが苦痛だったこと以外はそれなりに楽しく過ごせていました。

高校時代

高校は県内トップの進学校に進学しました。
市内の各中学校の成績トップが集まる高校でしたから成績はガクンと下がりました。
中学まではずっと優等生で来たのですが、高校では中の下くらいになりました。

勉強に関しては初めて劣等感を味わいました。
県内トップの進学校となると勉強も運動も優秀でさらに家柄も性格も良いといった凄い人間がいるものです。
全国模試でトップになる生徒がいたり、地元の大金持ち(長者番付一位)の息子がいたり等々。

凄いと思うと同時に自分がいかに平凡かと思い知ることになりました。

部活動は空手道部に入り、それなりにまじめに一生懸命やりました。
「○○道」いうものに惹かれました。
自然の理を追究したいという興味は当時からあったようです。

全国空手道連盟の初段を取り黒帯も締めることが出来ました。
後に大人になってから合気道や古武術を習うことになるのですが、当時から調和の取れた体の動かし方といったものに興味があったのだと思います。

母親との死別

高校3年生になる前の春休みに母が体調を崩して入院しました。
ところがなかなか良くならず入院が長引きました。
実は早い時点で膵臓ガンの末期ということがわかったのですが、後で聞いた話では本人と私と弟には知らせないようにしていたそうです。

当時は癌の告知も一般的でなかったし、私たち子供もショックを受けないようにと父親が配慮してくれたようです。

夏休みの時期に一旦退院したのですが、退院して一週間くらいの時に家で意識不明の重体に陥りました。
私は塾の夏期講習に出かけていて弟が意識を失っている母を発見して救急車を呼びました。

何とか一命は取り留めたものの、そこから3ヶ月間意識が戻らないままあの世へ旅立ちました。
親孝行らしき事もなにも出来なかったし、優しい言葉をかけることもないままに別れてしまったことをしばらく悔やみました。

しかし、その後何十年も経って自分が親になったときに、我が子が元気に過ごしているだけでそれだけでありがたいという体験をしたので、母に特別なことをしてあげられなかった自分をようやく許すことが出来ました。

大学時代

高校時代は受験に対するストレスや親の入院・死別など今思うと結構なストレスがかかっていたと思いますが案外気丈に過ごしていました。
浪人するのが嫌だったので現役で国立大学に入ろうと思っていました。
何とか現役で長野県の信州大学に入学することができました。

大学時代は初めての一人暮らしと様々なストレスからの解放感で、勉強よりも遊びの方に夢中になっていました。
スキーのサークルに入ったり、バイクの免許を取って信州の各地にツーリングに行きました。

合コンをしたり彼女が出来たり、アルバイトに明け暮れたり、仲間とワイワイ騒いで昼夜逆転の生活をしたり、とても楽しい時期を過ごしました。
しかし、学年が上がるにつれていろいろな不安が大きくなっていきました。
遊んでばかりでしたので単位を落として留年ギリギリで進学し、このままではいけないと思うようになりました。

パニック障害の発症

大学の試験の最中にパニック発作を起こしました。
徹夜で一夜漬けのテスト勉強の疲れと試験の緊張もあり、試験中に血の気が引いて意識が遠のく感じがして途中で保健室に運ばれました。

寝不足や疲れがたたって貧血の発作だったかもしれませんが、その時の不安感、動悸、意識が遠のく感じがそれから頻繁に起こるようになったのです。

授業中だけでなく楽しいはずのデートの最中にも発作が起きます。
バイクの運転中にも起こるようになりました。
当時はパニック障害に関する情報もほとんどなく、インターネットもありませんでしたので自分に何が起きたのかわかりませんでした。

不安とショックで大きな円形脱毛症も出来ました。
そのショックでまた不安になり、大学時代の後半は悪夢のような毎日でした。
不安、動悸、めまいでその場にいられなくなるのです。

それでも誰にも言えずに一人で耐え忍んでいました。
普通にしていれば何でもないのに、急に発作が起こるのです。
でも一人になって安心出来る場所に避難すると症状は治まります。

精神的な病気になったのか、悪霊に取り憑かれたのかと本気で悩みました。
その後解決策もわからないまま15年以上苦しみましたが、回り道もしながら何とか自力で克服することが出来ました。

会社員時代(繊維メーカーに勤務)

体調が悪いまま何とか大学は卒業し、愛知県名古屋市の老舗繊維メーカーに就職しました。
スーツ用の織物や糸を製造するメーカーでした。
幹部候補として入社したために初年度は一年間福島県と三重県の工場を往復しながら技術研修を受けて、二年目から名古屋の本社に勤務するようになりました。

パニック発作は相変わらず続いていましたが、自分の精神的な弱さから来る症状だと思っていましたので誰にも話しませんでした。
社会人二年目の23歳頃にパソコンを買ってインターネットを始めました。
それで遊びでホームページを作ったりネットサーフィンをしたりする中で、偶然パニック障害について書かれたサイトを目にしました。

それで自分の症状がすべて当てはまっていて、その時に初めて自分が抱えていた症状はパニック障害なのだと理解しました。
それがわかってなんだか安心した記憶があります。
自分に起きていることが何なのかわかっただけでもちょっとほっとしました。

発症からすでに三年ほど経っていました。

そういう病気だとわかったので、近所のクリニックに行ってみたのですがまだパニック障害という病名が知られていない時代でしたからお医者さんも「ああ、なんか最近そんなの聞いたことあるね」と言った感じで、めまいや吐き気を抑える薬や安定剤を処方してくれるだけでした。

転職

体調が悪い上に慣れない環境や仕事のストレスで気持ちもどんどんどんよりしていきました。
知らない土地で特別何かやりがいがあるわけでもない仕事をなんとなくこなしてそれで人生が進んでいくことがとても怖くなってきました。

自分にはもっと他にやるべきことがあるのではないか、と日々考えるようになったのです。
自分の人生をしっかり生きていない感覚がありました。
このままではまずいという違和感が日に日に大きくなっていきました。

それで新卒で三年ほど勤めた名古屋の会社を辞め、実家のある仙台に戻ることにしたのです。
25歳の頃です。
自分が本当にやりたいことはなんだろう、と初めて真剣に考えて健康関連の仕事がしたいと思って自然食品店に転職しました。

自然食品店に勤務

自然食品店時代は自分が興味がある仕事についたので楽しく勉強しながら一生懸命働きました。
ところが営業の成績を上げるために自分が売りたくない商品を売らなければならなかったり、イベントなどでは大勢の人の前で話さなくてはいけない機会も多々ありました。

私は幼少の頃からとにかく人前で話すという行為がずっと苦手で大人になっても嫌なままでした。
仕事を通じていくぶん慣れては来たのですが、それがずっと続くと思うと苦痛でした。

元来人前で話すのが苦手な上に、パニック障害の症状もまだありました。
特に人前に出たり緊張する場面があると体調も悪くなるのです。
自分がやりたいことや納得して頑張ることは出来るのですが、やりたくないことや納得できないことを頑張ってやらなければいけないような時は非常にストレスを感じます。

私は人一倍その傾向が強く、だんだんそのストレスが大きくなってうつ状態になってしまったのです。
朝起きても会社に行きたくないのです。
体が鉛のように重くだるくて動けないのです。

今思い返すととうつの症状です。
それで再度このままではいけないと思って、思い切って以前から興味があった整体の世界に飛び込むことにしたのです。

整体スクール入学

思い切って自然食品の仕事を辞め地元のカイロプラクティックのスクールに入学しました。
実は私はその3ヶ月前に結婚したばかりでした。
結婚してすぐに仕事を辞めたことは妻の実家にはしばらくの間(数年間)黙っていました。

もう後戻りは出来ません。
できるだけ早く開業して自分が理想とする整体院を開業したいと思っていましたので、スクール入学当初からずっとそこに照準を当てて勉強しました。

生活もありますので昼間はガソリンスタンドでアルバイトをして、夕方からスクールに通い、休みの日は図書館で本を借りて読みあさりました。
心と体の健康関連のこと、経営や接客のことも含めて毎日勉強していました。

同級生にスクール帰りに飲みに誘われても一切付き合わず、理想の整体院の開業に向けてひたすら猛勉強。
人生で最もハングリーだった時代です。

スタッフ勤務時代

在学中にスクール直営の治療院がオープンすることになりスタッフとして応募しました。
無事に雇ってもらえることになりがむしゃらに働きました。
人数的には今の何倍も施術していたのでいろいろ経験が出来て勉強になりました。

しかし、やはり雇われスタッフですから施術内容も決められたことしか出来ません。
自分がやりたい手技をやるには自分で開業するしかありませんでした。
スクール卒業後もしばらくお世話になりながら、タイミングを計っていよいよ自分で開業することになりました。

やすらぎの杜整体院の開業

2004年の4月に東仙台でやすらぎの杜整体院を開院しました。
院内の内装のイメージ、チラシ広告の内容、備品や施術の流れなどは開業のずっと前から考えたり準備してきたので開業はとても順調でした。

単に骨格や筋肉を調整するだけではなく、心も満たされて安心できて、魂もが癒やされる整体院の在り方を開業以来ずっと追究してきました。

手技も開業当初はスクールで習ったやり方でしたが、徐々に変えてきました。
セミナーなどでより効果的な手技を学び、さらにそれを独自に改良して現在では当院オリジナルの整体手技をしています。

多次元操体法の創案

開業初年度から仙台発祥の自然療法で人生の哲学でもある操体法を学び、施術に取り入れてきました。
同時にエネルギー療法や自然法則についても学びながら操体法に融合させてきました。

より優しい刺激で短時間にも関わらずよりよい効果が得られるように工夫を重ねてきました。
それを多次元操体法と名付けて施術を行うようになりました。

人間は肉体だけの存在ではなく、エネルギー的な存在でもあります。
そんな多次元的な存在である人間に対して、心・体・魂が調和するお手伝いをさせて頂くのが多次元操体法です。

多次元操体法講習会

2007年に多次元操体法の理論が直観に降りてきて、その後自院で検証を重ねてきました。
さらに2012年からプロの治療家向けに多次元操体法講習会を主催するようになりました。

毎月やすらぎの杜整体院にて、少人数制で行っていますがSNSやサイトを見てくれた先生が全国各地から当院に来て下さるようになったのです。
2019年現在で200名以上の先生方に直接ご指導をさせて頂きました。

人間はまだまだ未知の存在ですから、人間と自然について今も探究を続けています。多次元操体法も年々進化を続けています。

院長の思い

これまでの経歴などを紹介させて頂きました。
人生の転機になったのはやはり転職して施術家になろうと思ったことです。
それまでの自分が体調を崩した経験も全部そのためにあったように思います。

もしずっと元気でバリバリ働いていたらきっと今の仕事をしていないと思います。
体調を崩したからこそ、自分に向き合い自分が何をしたいのか真剣に考えました。
自分の健康づくりに取り組む過程で自然とこの仕事へと導かれたような気がします。

年間三万人が自殺する現状。
日本は幸福度が低い国ともいわれています。
そんな中で自律神経失調症、うつ病、パニック発作をはじめとして心の病気になる人が増えています。

一般的な対策としては休養したり、病院へ行って症状を抑えるための薬を処方されるだけです。
それで症状が根本的に良くなればいいのですが、現実的には副作用や依存症で余計に苦しみが増してしまう人たちもいます。

私は自分の判断で薬を絶ち、生活習慣を見直し改めることで心身の症状を克服することが出来ました。
しかし正しい情報と出会うまでに長い期間もかかりましたし、自分が克服したと思えるまで10年以上の年月がかかりました。

とりあえず良さそうなことで出来ることを試し、それで効果が出るのにある程度時間がかかることもあります。
何が良いのか悪いのかわからない中であらゆることを試してきました。
それである程度効果的なものを残して継続してきました。

最初から知っていればこんなに苦労をすることもなかったのに、とも思います。
私の使命は過去の自分と同じように苦しんでいる人を救うことです。

ちょっとしたことを知っているか知らないかで人生は大きく変わります。

私はちょっとしたことだけど大切なことをあなたに伝えたいと思います。
これまで研究を続け改良を重ねてきた多次元操体法と、生活習慣の改善を組み合わせることできっとあなたのお役に立てると考えています。

ご縁のある方とお会いできることを楽しみにしています。

やすらぎの杜整体院 院長 上川名 修(かみかわな おさむ)

趣味

ここからは特にどうでもいいことなのですが興味のある方だけ読んでください。
ちょっと変わった趣味をいろいろやっています。

元々趣味らしい趣味はなかったのですがせっかくの人生を楽しみたいと思って近年取り組んできたことを紹介します。

曼荼羅アート

ふと曼荼羅を描きたくなってYouTubeなどを参考にしながら見よう見まねで描くようになりました。
精神を集中して無心にひたすら細かい図柄を描き続ける行為は瞑想にも近いと感じます。

待合室の壁にも何点か飾っていますのでご来院の際にはどうぞ眺めて見て下さい。
調和したバランスの図形から癒やしの波動が出ています。

ギター

長男が中学生の時に買ったギターを時々いじっています。
音楽にはあまり縁が無い人生でしたがあえてやったことのない分野に取り組むことで、自分の心や体が活性化するのではないかと考え40代後半から独学で始めました。
初心者向け動画を見ながらちょっとずつ練習しています。

ルービックキューブ

1980年代に大流行したルービックキューブ。
私も小学生の頃に一生懸命やりました。
大人になってまたやってみたいと思い立ち、これまた動画サイトを見ながら攻略法を覚えて1分ほどで六面揃えられるようになりました。

脳の活性化のために時々やっています。

ロックバランシング

ロックバランシング

石を絶妙なバランスで積み上げるロックバランシングというアート作品を見たときに自分もやってみたいと思い、泉が岳の上流の沢から石ころを拾ってきて積み重ねてみました。

調和が取れた超絶なバランスはただの石ころなのですが美しいアートなのです。人間の体も同様で調和が取れると美しくなります。
それを伝えたくて施術室にもロックバランシングの作品を飾っています。

ストリートけん玉


海外でブームになってたkendamaが逆輸入される形で日本に入ってきて、昔のけん玉のイメージとはまったく違ってて衝撃を受けました。
これぞ心身の鍛練になると思い2016~2017年頃に一生懸命やっていました。

アサラト

西アフリカ発祥の アサラトという楽器です。
リズム感を養うためと脳と体の活性化のために数年前に始めました。 カチカチ鳴らしてリズムを刻みます。
鳴らしていると脳がトランスに入り気持ちよくなってきます。

ディジュリドゥ

オーストラリアの先住民、アボリジニに伝わる民族楽器・ディジュリドゥです。ユーカリの木をシロアリが食べて中が空洞になったものを楽器にしています。
世界最古の木管楽器と言われています。

唇を振動させて舌の動きや口腔内の動きでリズムを作り出します。
非常にシンプルな構造ですがシンセサイザーのような不思議な音色が出ます。
倍音が豊かな楽器です。

倍音について探究していた時期に出会いしばらくやっていました。

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